
K様には、これまで数年にわたり当店でMTM(メイド・トゥ・メジャー)のスーツを3着、そしてコート1着と、大切に一着ずつワードローブを揃えていただきました。回を重ねるごとに体型の特徴やスタイルの好みを深く共有させていただけるようになりましたが、この度、初めてのビスポークをお任せいただくこととなりました。 きっかけは、アラシャンカシミヤという特別な素材との出会い。この素材で「理想のボンドスーツ」を作ってみたいというK様の思いが、今回の始まりでした。 MTMでの完成度に満足いただきながらも、なぜ今回ビスポークを選ばれたのか。その理由を含め、一着の服が「K様だけのため」に形になっていくプロセスをご紹介します。
ビスポークスーツをご検討いただいたきっかけ
K様はこれまで、ドラッパーズのSAPPHIRE(ウール&シルクのソラーロ)やGreen hills(スーパー180's)、さらにカチョッポリのVESVIO(スーパー150`s)といった、上質な素材でMTMスーツをお仕立ていただいています。常に上質な素材に触れ、その風合いを愉しまれてきたからこそご紹介したかったのが、当店のオリジナルとして作成したアラシャンカシミヤ100%の生地でした。カシミヤの最高峰と称されるこの素材は、圧倒的なぬめり感と光沢、そしてハリコシを備えています。別件でご来店いただいた際、この生地をお手に取られ、その質感に強い興味を持ってくださいました。この希少な素材を形にするにあたり、私からお話しさせていただいたのがビスポークの魅力です。「このクラスの生地であれば、職人の手仕事によるビスポークで仕立てることで、素材の風合いをより引き出すことができるのではないか」というご提案です。そんな対話の中で、「せっかくこのアラシャンカシミヤで仕立てるなら、最高峰の技術であるビスポークで挑戦してみたい」とご決断くださいました。
お選びいただいたオリジナルのアラシャンカシミヤについて
今回K様に選んでいただいたのは、当店のオリジナルとして作成したアラシャンカシミヤ100%のグレー生地です。 最大の特徴は、カシミヤの中でも世界で最も細く希少なアラシャンカシミヤを贅沢に使用しながら、梳毛(そもう)として織り上げている点にあります。通常、カシミヤは紡毛(ぼうもう)としてふっくらと仕上げ、コートやジャケット等に用いられることが一般的ですが、この生地は極めて細い原毛をあえて梳毛にすることで、スーツとしての着用に耐えうる耐久性とコシを持たせています。さらに、スーツ地としての優れた機能性にも注目しました。一般的にカシミヤのようなデリケートな素材は、着用に伴うパンツの膝抜けが懸念されますが、この生地は縦方向への伸びを最小限に抑え、横方向にはしなやかな伸縮性を持たせるという、理想的なコンポジションを実現しました。この縦横の絶妙なバランスがあるからこそ、身体の起伏に合わせる職人の手仕事が活き、ビスポークに最適な素材です。
事前ヒアリング
型紙を一から作成するビスポークの最大の魅力は、その自由度にあります。 当初はこれまでお作りいただいたMTMのスタイルを踏襲する方向で進めていましたが、その後、K様より「今回のスーツには映画『007』のボンドスーツのテイストを取り入れたい」というご要望をいただきました。具体的には、「水平にカットされた胸ポケットなどのディテールを取り入れたい」というものです。このリクエストを受け、私は歴代のボンドスーツを改めてリサーチしました。年代ごとのスタイルの変遷はあるものの、共通しているのは「構築的な肩」と「シャープなラペル」です。今回のしなやかなアラシャンカシミヤという素材に、ボンドスーツの力強さをどう融合させるか。私が辿り着いた答えは、イタリアのブリオーニのような、モダンさと気品が同居する雰囲気でした。「ほどよく構築的で凛々しい肩のラインを保ちつつ、カシミヤ特有の柔らかなドレープ感も存分に愉しめる。ラペル幅も細すぎず、時代に左右されない『良い塩梅』を目指すのはいかがでしょうか」、とご提案しました。言葉だけでは伝わりにくいこのイメージを、参考画像と共にメールでご案内したところ、K様からも「この雰囲気をベースに好みの要素を取り入れられたら最高ですね」と、非常に共感いただけるお返事をいただきました。このように、採寸当日を迎えるまでにお客様のご要望を丁寧にお伺いし、それを基に私からも提案を重ねて、K様のイメージを具体的にするお手伝いをさせていただきました。
ビスポークの採寸
ビスポークは、「採寸」「仮縫い」「中本縫い」という工程を経て完成となります。 全ての工程において、お客様のスーツを実際にお仕立てする職人が一貫して担当します。当日は、当店のビスポーク製作をお願いしている職人の小島氏にお越しいただき、採寸を行いました。一から型紙を作成するビスポークには、MTMのようなベースとなる型紙がありません。そのため、より細かな採寸を行い、K様のサイズや体型の特徴を確認していきます。計測箇所は、ジャケット15箇所、パンツ5箇所の合計20箇所。それに加えて、小島氏はK様体の起伏などを手で直接確認していきます。 採寸値という「数値」に加え、手の感覚で捉える「体の肉付きや骨格の特徴」。この両方をバランスよく型紙に反映させることで、事前の打ち合わせで共有したイメージを形にしていきます。
ビスポークの仮縫い
採寸から約2ヶ月後、その際の情報を基に仮縫いとして組み上げ、お客様にご試着いただいて仕上がりの方向性を確認しました。K様にはこれまでMTMでもスーツをお作りいただいております。今回は、MTMの採寸時に蓄積してきた補正データに加え、これまで体型を拝見する中で把握してきた特徴を事前に職人の小島氏と共有し、仮縫いを行いました。特に、筋肉質で胸筋が発達されているK様は、胸を張った体型という特徴をお持ちです。そのため、背中の収まりやジャケットの前後バランスを重点的に確認し、一度袖や肩のしつけ糸を外して、よりお体に沿う位置を探っていきます。あわせて、事前ヒアリングでお伺いした「肩のライン」や「襟幅」など、ご要望いただいたボンドスーツのイメージに沿っているかどうかも、この段階で改めて確認しました。また、パンツについても、クリース(センターライン)が真っ直ぐ綺麗に落ちるよう、シルエットの微調整を行いました。こうした細かな検証を重ね、体の起伏に合わせて型紙を調整していきます。
ビスポークの中本縫い
仮縫いからさらに約2ヶ月後、前回の調整を反映させた状態で中本縫いを行いました。ジャケットは背中の収まり具合と前後バランスを重点的に検証します。背中にしつけ糸を打ちながら最終的な数値を割り出し、さらに仮縫い時と同様、一度袖を外してK様の体に沿った肩の傾斜や前後バランスになっているかを精査しました。パンツについても、仮縫いで修正したクリースラインの落ち方に加え、ヒップのゆとり分量をしつけ糸で留めながらミリ単位で細かな調整を加えていきます。ビスポークの中本縫いでは襟も作られた状態になるため、より完成に近い姿を想像しやすくなります。この段階で、ラペル幅や襟の雰囲気、肩のラインといった、ご要望の「ボンドスーツ」のイメージを具現化できているか、K様のご意向をお伺いしながら最終のすり合わせを行いました。
仕上がり紹介とお客様の声




中本縫いから約2ヶ月。いよいよ本縫い上がり(完成)の日を迎えました。この日は、職人の小島氏が立ち会う「ビスポーク受注会」の日程に合わせてK様にご来店いただき、最終的な仕上がりの確認を行いました。中本縫いでの微調整を反映させたジャケットの背中やパンツのヒップ周りの収まり、そしてアイロンワークの結晶であるクリースラインの落ち方など、職人の目で細部まで入念に拝見させていただきました。
お仕立て上がりとK様の感想

実際に袖を通されたK様のお姿は、まさに事前にお話ししていた「モダンなボンドスーツ」そのものでした。「今までのMTMの仕上がりで十分に満足していたので、それ以上の着心地の良さは想像できなかったけど、確かにこれはイイですね!アラシャンカシミヤの肌触りも気持ちいですね!」と大変嬉しい感想をお聞きできました。
ボンドスーツの雰囲気を再現したラペルと肩のライン

シャープなラペルと構築的な肩のラインこそが、今回のボンドスーツにおける最大のポイントです。ボンドスーツ特有の雰囲気を踏襲しつつ、たくましい胸板をお持ちのK様の体型に合うバランスを追求しました。具体的には、肩幅をやや広めに設定する一方で、ラペルを細めに設計。この2箇所の対比を計算することで、胸元のボリュームがより端正に引き立つようにしています。ラペルは細すぎればモードな印象に寄り、広すぎればナポリ風のクラシックな趣が強まります。あくまで「ボンドスーツ」のラペル幅を参考にしながら、ジャケットをお召しいただいた際に最も胸元が映えるバランスでお仕立てしました。
風格と柔らかな肩先を両立させるナポリ袖

MTMよりも厚みのある芯材を用いてボンドスーツのような凛々しい肩を表現しました。一方で肩先を丸く仕上げることで、現代的なニュアンスも持たせています。この柔らかな肩先を実現しているのが「ナポリ袖」という袖付けの技法です。マニカカミーチャ(雨降り袖)と同様に縫い代を割って袖付けを行うことで、肩先から袖山までをフラットに繋げ、自然な落ち感を生み出しています。マニカカミーチャと異なるのは、肩の前後にあえてゆき綿を入れている点です。ギャザーを寄せるのではなく、ゆき綿で適度な膨らみを持たせることで、肩先に優雅な丸みがありつつも、程よく構築的な袖山に仕上げました。カシミヤのしなやかさを活かしながら、ボンドスーツの風格を感じさせる。そんな「良い塩梅」の肩周りが完成しました。
体のラインを美しく見せる型紙の設計

型紙はバストの前を広くとった北イタリアのスタイルを採用しました。英国的な構築感がありつつ、イタリアらしい柔らかな雰囲気も併せ持つ絶妙なバランスです。たくましい胸板をお持ちのK様のお体に合わせ、トレーニングで鍛えられたラインが美しく映えるよう、バストに豊かな立体感が生まれる2面体の型紙でお仕立てしました。ビスポークならではの自由な設計と、アラシャンカシミヤのしなやかな特性。その双方が結びつくことで、力強くもエレガントなK様のためだけの一着が完成しました。
程よい曲線のバルカポケット

当初のヒアリングでは、ボンドスーツのイメージから水平な胸ポケットも検討されていました。しかし、その後の打ち合わせを経て、北イタリアスタイルの型紙やナポリ袖といった今回の仕立て全体のバランスを再考。 最終的にはK様のお好みも反映しつつ、胸元に柔らかな表情を添える、「ほんのりカーブしたバルカポケット」をご案内しました。ディテール一つひとつをお客様と一緒に選んでいく過程も、ビスポークでオーダーする醍醐味として愉しんでいただけたのではないかと思います。
手仕事の温もりが引き立てるアラシャンカシミヤの質感

アラシャンカシミヤの滑らかな質感を際立たせるため、やや太めの糸でハンドステッチを施しました。また、フラワーホールは特殊な芯糸を用いて手かがりで仕上げています。この手仕事ならではの立体感や温もりが均整の取れた滑らかな生地感と対比され、素材の良さをより一層引き立ててくれます。ステッチ糸の太さまで選び、生地との対比を自分好みに作り上げていく。こうした細部へのこだわりも、K様にはビスポークならではの醍醐味として愉しんでいただけたのではないかと思います。
アイロンワークで描く体に沿った曲線「S字のクセ取り」

K様からは、これまでのMTMよりもパンツを細くしたいとのご要望をいただきました。ただ、ふくらはぎが発達されている体型の場合、単純に絞りすぎると生地が脚に当たり、シルエットが崩れてしまいます。 そこで、体の起伏に合わせてアイロンワークで生地の形状を整える「S字カーブ」のクセ取りを、通常よりも強く施しました。人間の脚を横から見ると、ヒップの膨らみから膝へ向かって細くなり、そこからふくらはぎの膨らみ、さらに足首に向かって細くなるという複雑な曲線を描いています。K様の場合は特にふくらはぎの膨らみを考慮し、熟練の技で立体的な余裕を作り出しました。この工程により、ふくらはぎへの当たりが緩和され、脚にまとわりつかないストレスのない着用感と、すとんと落ちる綺麗なシルエットを両立させています。
クラシックな趣を深める丹念なハンドワークの数々


パンツにも、イタリアのサルトリアに見られるハンドワークを随所に盛り込みました。タックやポケット口のハンドによる閂(カン)止めをはじめ、ハンドステッチ、さらにはシームホールなど、ビスポークならではの手縫いを多く取り入れています。こうした細部を積み重ねることで、より本格的でクラシックな趣に仕上げました。カシミヤの極上の肌触りと共に、ビスポークならではの手仕事の風合いを、末長くお愉しみいただければ幸いです。
理想の一着を形にする特別な体験を
「今までのMTMで十分に満足していたから、これ以上の良さは想像できなかった」 完成したスーツに袖を通した瞬間、K様がそう仰って喜んでくださったことが、何よりもうれしく、印象に残っています。お客様と、職人と、私の三人で対話を重ねて、一着の服を作り上げていく。そんなビスポークならではの時間が、最終的にご満足いただける仕上がりに繋がったのだと感じています。 この着心地の良さは、どうしても言葉だけでは伝えきれない部分があります。「もっと自分に合うものはないか」「もっと着心地を良くしたい」とお考えの方に、型紙から作り上げるビスポークの世界を、ぜひ一度味わっていただきたいと思っています。 自分の体にぴったり寄り添う一着を、ゆっくりと時間をかけて作っていく。そんな贅沢な愉しみを、一人でも多くの方に知っていただければ幸いです。 当店では定期的にビスポーク受注会を開催しています。どんな些細なことでも構いませんので、まずはお気軽にお話ししに来てください。あなたの理想を形にするお手伝いをさせていただきます。 K様、この度は本当にありがとうございました。













