ホームページをご覧になり、お問い合わせをくださったE様。 今回はご自身の会社の節目となる創業周年パーティーに向け、ご子息とご一緒にお召しになるスーツをご検討とのことでした。 普段は歴史ある老舗テーラーを贔屓にされているそうですが、大切な記念の装いとして「当店のビスポークを試してみたい」と、初めて足をお運びくださいました。
事前ヒアリング
ご来店当日、よりスムーズなご案内ができるよう、あらかじめ理想のイメージを伺いました。 一年の大半を温暖な海外で過ごされているお二人にとって、共通のテーマは「現地でも快適な薄手で軽い仕立て」であること。 その一方で、お父様には揺るぎないスタイルの指標がありました。007世代であるE様が選ばれたのは、ジェームス・ボンドを彷彿とさせる、艶を纏ったダークトーンの英国スタイルです。また、以前のヨーロッパ出張の折にオーダーされたベルルッティの靴が間もなく仕上がるとのことで、事前にお写真も共有してくださいました。スーツの他、その特別な一足に合わせるジャケットやパンツのトータルコーディネートについても、非常に熱心に構想を練っていらっしゃいました。
ご来店に向けた準備
ボンドスーツ風のイメージについては、以前にも他のお客様からご要望をいただいたことがあります。改めて当時の資料を見返すとともに、歴代のスタイルについても再考しました。まず着目したのは、初代ショーンコネリーが着用していたアンソニーシンクレアのスーツです。改めて私なりの視点で見つめ直すと、広く構築的な肩に対して、ゴージ位置の低いナローラペル、そしてウエストシェイプを抑えたボックスシルエットが印象的で、英国的な中にもどこかアメリカ的な空気感を感じました。それから時代が進んで、ピアーズブロスナンやダニエルクレイグが着ていたブリオーニのスーツにも着目しました。ボンドスーツらしいシャープな襟の形は守りつつ、襟の位置を少し上げて、程よく構築的な肩で威厳を出しながらも、イタリアらしい色気も混ざっているようなスタイルです。こうした情報を整理した上で、E様のご要望である「海外での着用に適した軽い仕立て」をどう融合させるか。お二人にとっての最適をご案内ができるよう、準備を整えていきました。
ご来店時のヒアリング
当日はお二人揃ってご来店いただきました。周年パーティーでは同時にお客様の前に登壇されるとのことで、お二人が並んだ際のバランスを考え、親和性のある生地選びとコーディネートをご希望されました。 また、当日は会場で挨拶に回り、アクティブに動かれるとのこと。「着やすさ」と「涼しさ」は、お二人にとって譲れない大切な要素です。先ずはこのお二人の共通テーマに相応しい生地をご紹介させていただきました。
生地のご紹介
スーツ生地(お父様)
私の中でジェームス・ボンドのスーツと言えば、やはりドーメルのトニックに代表される「モヘア」です。E様も私と同じイメージをお持ちで、モヘアは有力な候補のひとつでした。当日は、モヘア特有の質感を比較検討いただけるよう、目付の異なる230g、260g、290gの3種類に加え、非常に珍しいモヘア100%の生地をご用意しました。その中でお選びになったのは、ウール84%・モヘア16%(230g)の現代的な風合いの生地です。モヘアの混率を控えめにすることで、特有の硬さが抑えられて着やすくなり、なおかつモヘアらしい清涼感もしっかり味わえるまさに今回のテーマに相応しい現代的なバランスの一着です。色は落ち着いたミッドナイトブルーと、それよりも一段明るいネイビーの2色が最終候補に残りました。ここで決め手となったのが、今回のパーティーのためにベルルッティでビスポークされた一足です。ネイビーのパティーヌが美しいそのシューズとの相性と、当日の主役という立場を考慮し、照明の下で映える華やかなネイビーにお決めいただきました。
ジャケット&パンツ生地(お父様)

お祝いの席に先駆けて行われるレセプションでは、肩の力を抜いたジャケット&パンツの装いを選ばれました。こちらには、事前にお写真をいただいていたライトブラウンのベルルッティに合わせて、当店で大切に保管していた秘蔵のデッドストックのジャケット生地を特別にご紹介させていただきました。シルク52%・カシミヤ48%のこの生地は、カシミヤの糸に極細のシルクを巻き付けた贅沢な作り。繊細な素材だからこそ表現できる絶妙な色柄が魅力で、今では製造も販売もされていない手に入れることのできない非常に希少なものです。個性的なカラーのシューズとのバランスを考え、パンツは王道のコットンツイル(ベージュ)をセレクトいただきました。今回のジャケパンスタイルでは、タイドアップせずにスカーフで軽快にまとめられるとお聞きしていたので、ウールではなくあえてコットンを選ぶことで、程よくリラックスした上品なコーディネートをお楽しみいただければと思います。
スーツ生地(ご子息)
当日お話を伺う中で、ご子息はカッチリとした英国調よりも、イタリアらしい柔らかな雰囲気がお好みであることが分かりました。そこで、「着やすさ」と「涼しさ」という共通テーマに基づき、ドラッパーズのアスコット2プライをご紹介しました。ウール100%の平織り、いわゆるフレスコ生地ですが、タテヨコ双糸使い(2プライ)ながら、驚くほど軽くて柔らかな風合いが特徴です。実はこの生地、私自身もスーツとスラックスを合わせて8着も愛用しているほどお気に入りの素材です。とにかく涼しくてシワになりにくく、その上、ナチュラルストレッチが効いていて動きやすい。これまで多くのお客様にも喜んでいただいてきた自信を持っておすすめできる生地です。店頭のサンプルに袖を通していただき、その肌触りと軽さをすぐに気に入ってくださいました。カラーは、チャコールグレーをセレクト。この生地特有のマットな質感は、お父様が選ばれた「モヘア特有の光沢があるネイビー」と並んだ際に、互いの個性を引き立て合う美しい対比を生み出します。
採寸&フィッティング
お父様の採寸とフィッティング

今回のファーストフィッティングは、私が直接担当させていただきました。まずはボディサイズを採寸した後、ゲージサンプルをご試着いただき、仕上がりのイメージを共有していきます。フィッティングの際、骨折の影響で右肩が下がっていることを伺いました。実際にゲージサンプルをご試着いただくと、左右で肩の傾斜が異なり、右肩の下がりが強く出ている状態でした。E様からは「完治すれば肩の傾斜は戻ると思う」とお聞きしたため、私からは将来的なお直しの可否を含めてご説明しました。スーツの構造上、完成後になで肩の調整は可能ですが、怒り肩に調整することはかなり困難です。もし現状の肩下がりに合わせ調整し、後に肩のラインが戻った場合、構造上お直しができなくなってしまいます。どの程度戻るかは未知数ですが、戻った際に対処ができるよう、今回は今の状態に合わせすぎず、なで肩の調整を控えめに留める方針で進めることになりました。また、腕の可動域に深く関わる「鎌底(かまぞこ)」のゆとりについても細かくチェック。ゲージサンプルを着用した際の余り具合を参考に、アームホールの最適な大きさを算出して、ご体型と将来的な変化に配慮した型紙を作成していきます。

上半身に比べ、脚のラインが非常にスマートでいらっしゃいます。今回はベルトレスのサスペンダー仕様でお作りするため、その吊り具合を考慮し、ゲージサンプルよりも股上の深さをしっかりと確保することにしました。また、パンツのラインが外側に逃げやすい傾向も見受けられたため、そのあたりを型紙の段階で細かく調整し、ストンと綺麗に落ちる美しいシルエットを目指して設計を進めます。
ご子息の採寸とフィッティング

ご体型の特徴としては、前腰と反身の両方の特徴を併せ持っていらっしゃいます。そのため、ジャケットの前身が吊られ、後ではヒップが当たり背の中央には袋状の余りがあります。また、袖の後ろに引かれシワが出ています。これはジャケットの袖の振りがお体に合っていないのが原因です。こうした一つひとつの事象を丁寧に見極め、型紙に反映させることで、イタリアらしい柔らかな雰囲気を活かしつつ、着やすく美しいシルエットを目指していきます。

パンツについては、尻ぐりの食い込みや、太もも裏から膝裏にかけての当たりが見受けられました。MTMの場合、尻ぐりを出す補正で対応しますが、ビスポークの場合は一から型紙を作成するため、尻ぐりの形状そのものを根本から調整するアプローチが可能です。加えて、ふくらはぎに生地が当たっていることでパンツが下に落ちきらず、その分の余りが太もも裏に溜まってしまっていることも原因の一つです。こうしたミリ単位の設計こそが、最終的な履き心地の差を生みます。
お二人の採寸データとフィッティング時の画像は、すべて職人の小島へ詳細にフィードバックしました。ここから先は、いよいよ「仮縫い」の工程。職人へとバトンを繋ぎ、お二人の想いを形にしていきます。
ビスポークの仮縫い
お父様の仮縫い
事前のフィッティングデータを基に型紙を作成し、仮縫いを組み上げました。当日は両袖を外した上で、肩のしつけも解き、肩傾斜の具合を細かく確認しました。特に重点的な調整を求められていた箇所ですので、仮縫いの状況を慎重に見極めながら進めていきました。 あわせて、採寸時に「肩が前に出ている影響で胸周りが凹んで見えるのが気になる」というご相談をいただいていたため、バストラインの立体感を意識して型紙を構成しています。 今回は、それぞれのアイテムのコンセプトに合わせて型紙の構成を変えています。スーツについては「ジェームス・ボンドのスタイルを踏襲する」という目的から、オーソドックスな3面体の型紙を採用しました。一方のジャケットは、バストをより立体的に見せる効果がある、フロントダーツが裾まで貫通した当店のハウススタイル(2面体)でお作りしています。いずれの型紙においても、バストの立体感は十分に確保した上で、それぞれの構成が持つ背景や、描き出されるシルエットのニュアンスの違いについて詳しくお伝えしました。
ご子息の仮縫い
パンツについては、課題としていた尻ぐりの形状が仮縫いの段階できれいに収まっていることを確認しました。ここからはさらに精度を高めるため、他の箇所についてもよりお体に沿うようアプローチを重ねていきます。 お体の重心(腰の位置)が前方にある場合、どうしてもヒップの下にシワが出やすくなるため、後股上の深さやヒップ周りの寸法を細かく再調整しました。ジャケットは肩傾斜の状態を確かめた後、フロントの収まり具合についても改めて調整を行いました。仮縫いの段階ではまだ襟がついていないため、完成時の表情を具体的にイメージしにくい部分もありますが、まずはシルエットや全体の方向性がご要望通りに進んでいるかを確認していきました。
ビスポークの中本縫い
お父様の中本縫い
仮縫いで調整した内容を、この中本縫いの段階で改めて形に落とし込みました。特に肩傾斜については、袖と肩のしつけを再度解いて、念入りにチェックを行っています。 スーツとジャケットでは生地の重さ(目付)や厚みが異なるため、それぞれの素材に合わせて最適な数値を導き出し、微調整を加えていきます。中本縫いでは襟やポケットまで出来上がっているため、より完成に近い姿をイメージしていただけるようになります。デザインやディテールなど、全体の方向性がご要望通りであることを最終的に確認し、いよいよ最終工程の本縫いに取り掛かります。
ご子息の中本縫い
仮縫いの結果を踏まえ、まずは肩の傾斜を細かく再調整しました。肩のラインがお体に沿ってきたことで、今度は首の付け根の下に「ツキシワ」が見えてきたため、そちらへの対策も並行して行っています。 型紙の調整は、どこか一箇所を動かせば済むというものではありません。ある部分を直せば他の箇所も連動して変化するため、全体のバランスを常に俯瞰しながら微調整を繰り返す必要があります。こうした細部にわたる徹底した微調整の繰り返しが、最終的に体にあった、動きやすい一着へと繋がります。 中本縫いでさらに精度の高い追い込みをかけ、すべての調整を終えたところで、いよいよ最終的な仕立てを形にする本縫いの工程へと進みます。
ビスポークの完成に向けて
現在、中本縫いでの調整をすべて反映させ、最終的な本縫いの工程に入っています。 お父様のボンドスーツとジャケット&スラックス、そしてご子息のスーツ。それぞれのこだわりが形になり、お二人の特別な装いが間もなく完成します。この後の仕上がりの様子については、約2カ月後、本縫いが完了した際に改めてこちらでご紹介させていただきます。ぜひ楽しみにお待ちください。














